アストンマーティンの未来はどう変わっていくのか?? 過去の歴史を掘り下げてみる。
アストンマーティンが大好きであるが故に、あの噂が出てくるとやはり心配になる。
ネットでもちらほら見かけるが、
「アストンマーティン 8度目の倒産の可能性」
と、また倒産の危険信号が出ている。
どのカーブランドもそうだが車が売れない事には経営が成り立たない。
過去に7回も倒産危機があったのかと驚くが、
そんなアストンマーティンの歴史を遡っていく。
アストンマーティンが誕生したきっかけ
1913年1月15日にレーシングドライバーであるルイス・ズボロフスキー伯爵の援助のお陰でロバート・バンフォードとライオネル・マーティンによって設立されたのは「バンフォード&マーティン」という会社だった。
ライオネル・マーティンはアストン・クリントン近郊のアストン・ヒルでレースに出場し、2人はレース用に独自の車を作ることにした。
このチューンアップされた車両で、アストン・クリントンのレースコースでライバルのスタッツ4.9Lとベントレー4.5Lに対抗し勝利した。この時の勝利により、ライオネル・マーティンは、アストン・クリントンの「アストン」自身の名前の「マーティン」を繋げアストン・マーティンというブランド名を掲げ始めた。
アストンマーティンの名前を冠した最初の車、1914 年のコール スカットルは、1908 年のイソッタ フラスキーニ シャシーにコベントリー シンプレックス エンジンを搭載して作られた。
第一次世界大戦はマーティンが海軍本部へ入隊。バンフォードが陸軍軍団に入隊したためシリーズの生産が妨げられたが、戦後はケンジントンのアビングドン・ロードにある新しい施設で生産を開始することができた。
バンフォードは、量産が開始される前の1920 年に会社を去ってしまった。
ルイス・ズボロウスキー伯爵からの資金提供により、バンフォード&マーティンは 1921 年からスタンダード スポーツモデルの準量産を開始することができた。
翌年フランス グランプリ用の車両を生産し、ブルックランズで速度と耐久性の記録を樹立することになる。
バンフォードとマーティンは1925 年に破産により手続きが中断されるまで、限られた台数のロング シャーシとショート シャーシのアストン マーティン車を生産した。
1924年に、ズボロフスキー伯爵がイタリアのモンツァ・サーキットでレース中の事故で死亡したことを受けて倒産し、翌年の1925年に2度目のアストンマーティンの破産した。
1925 年に破産により手続きが中断されるまで、限られた台数のロング シャーシとショート シャーシのアストン マーティン車を生産した。
工場は 1926 年に閉鎖され、ライオネル・マーティンは退職した。
破産後はアストン・マーティン・モーターズに改名
1926 年後半、ビル レンウィック、オーガスタス ベルテッリ (バート)、そしてチャーンウッド夫人などの投資家が事業を掌握しました。アストン・マーティン・モーターズに改名された。
1926 年から 1937 年までのこの期間の車はベルテッリ車と呼ばれた。
Tタイプ、インターナショナル、ル マン、MKII、アルスター、スピード モデルが含まれていた。これらの車両のほとんどはオープン 2 シーター スポーツカーで、少数の車両はロング シャーシ モデルでした。、1931年のル・マン24時間レースでは総合5位に入る活躍を見せるなど耐久レースを中心に活躍した。
しかし、1932年に再び財政問題が発生し、アストンマーティンはランス・プリドー・ブリュンによって救済され、その後アーサー・サザーランド卿に引き継がれなければならなかった。
1936年からアストンマーティンはロードカーに集中することを決定し、翌年には新しい2リッターモデルを導入した。その後間もなく、ベルテッリはアストン マーティンを去った。
スポーツ モデルに対する彼の情熱とともに、より主流の2 リッターは彼の考え方からの逸脱だった。第二次世界大戦前に約 700 機の 2 リットルが製造され、その間に同社は航空機部品を製造していた。
アストンマーティンといえば「DBシリーズ」
1947年から現在でもお馴染みのDB5、DB9、DB11といった「DBシリーズ」の起点となったデイヴィッド・ブラウンの傘下となる。後に車名にも使わる高級車ブランドの「ラゴンダ」を吸収合併した。
ラゴンダは、ベントレーの創設者であり開発者のW.O.ベントレーが設計した6気筒エンジンを使用した車を生産していた。
ブラウンはこのエンジンがスポーツモデルにも適していると考え、
1950年にアストンマーティンはこのユニットを搭載した素晴らしい2シータークローズドボディのDB2を発表した。
ここで何故DB1ではないかと言うと、
1940年にアストンマーティン アトムという今では考えられない程に小さなアストンのコンセプトカーがある。
このアトム同様のシャシーを発展させ1,970ccエンジンを積んだ2リッター スポーツというモデルがあった。
DB2の販売準備が整い後にの経営となってから初の生産車であることから後年になって2リッタースポーツは別名で「DB1」と呼ばれている。生産台数は15台となっているが日本にも1台ほど輸入されているという。
1950年にDB2が誕生日し、
1953年にDB2/4 Mark l 、
1955年にはDB2/4 Mark ll、
1957年にDB2/4 Mark lllと約2年毎にモデルチェンジした。
そして1958にDB4が誕生し2023年9月現在までのアストンマーティンを象徴する「ヴェーンドグリル」の形が確固たるものになった。
ここでDB3は製造されていないのかと問われると思うが、1949年以降にアストンマーティンのロードカーとサーキットカーが異なる方向に発展し、
1951 年にDB3、
1953 年には軽量のDB3Sがサーキットカーとして製造された。
この間に忘れてはいけないのがレーシングカーのDBR1だ。
DBR1 は、DB1、DB2、DB3、DB3S などの自動車を含む 10 年間の開発の集大成ともいわれており、「すべてのスポーツ レーシング カーの中で最も美しいものの 1 つ」と評されるボディを持っていると言われている。
そして有名なのは、1959 年のル・マン 24 時間耐久レースでのアストンマーティンの唯一の完全勝利だ。
1950 年代に同じ年に世界スポーツカー選手権とル・マン 24 時間レースの両方で優勝した、たった3 台の車のうちの 1 台がアストンマーティン DBR1である。
(その他の車両は1954 年のフェラーリ 375 プラスとフェラーリ250TR 1958年)
そしてDB4の誕生から5年が経った1963年には、007が好きな人ならば誰もが知っているDB5が誕生した。
その後、1965 年にアストンマーティンはDB5 を DB6 に置き換える。
DB6 は 4 つのフルシートを提供するように延長されており、トライアンフのリアライトを組み込んだ新しいカムテールで再設計されていおり更には空気力学と後部の揚力を減らすことを重視して開発された。
このDB6の生産途中で1967年にDBSが発売された。
初期の1967年モデルには当初搭載予定だったV8エンジンの開発が遅れ、急遽DB6用の4.0の直6エンジンを搭載した。
しかし重量がDB6より重いため新型車にも関わらず性能が劣ってしまった。
2年後の1969年にV8エンジンを搭載したDBSは当時の世界最速の4シーターとなった。その後20年続く高速GTカーとしてのアストンの名声を決定づけていた。
このDBSは女王陛下の007に登場しているのも注目して欲しい所だ。
賛否が分かれている「女王陛下の007」だが、私が非常に好きな007作品の1つである。
この作品はシリーズの中でもシリアスな展開となっている。
内容は話すつもりが無いが、余りにも残酷であるとだけ言葉を添えておく。
このDBSは短命に終わってしまったが堂々として迫力があって、しかも洒落ている。
長くのびた四角いボンネットと横に広がったフロントグリルに加え、より豪華になった内装と大胆で先細になっていく後部がその斬新なデザインを強調している。
DB5は最も有名なボンドカーとしてこれからも世に伝わっていくと思うが、その中でもこのDBSの華麗な姿を見れるのは「女王陛下の007」のみなので是非1度見て欲しい。
DBSが販売された事によってアストンマーティンの経営が上手く行くかと思ったが1972年に「デイヴィッド・ブラウン・グループ」が経営不振に陥ってしまった。
アストンマーティンを立て直し成長軌道に乗せたデイヴィッド・ブラウンは、アストンマーティンの経営権を手放さざるを得なくなってしまう。
その経営権は会社をバーミンガムに拠点を置くカンパニー・デベロップメンツと呼ばれる投資銀行コンソーシアムに移された。
「DB」の文字が全てのモデルから外され、
カンパニー・デベロップメンツは 2 つの新しいモデルを導入した。
DBS 6気筒はヴァンテージに置き換えられ、
DBS V8 はV8 サルーンに置き換えられた。
どちらのモデルも前モデルをベースに新しいノーズは以前の 4 つのランプを囲むものではなく、単一のヘッドランプと中央のグリルを特徴としている。
この各モデルには不運が待ち構えいた。
アメリカのカリフォルニア州などで施行された新たな排ガス規制法に対応できなくなったことから、1974年にはアストンマーティンにとって最大の市場であるアメリカで販売できなくなった。
その排ガス規制のV8 を開発するための資金不足が加わり、米国での販売停止によってアストンマーティンの業績は瞬く間に赤字になり、1974 年に国家援助として50 万ポンドの要請したが拒否されてしまった。
その後1975年に入って数百人規模の人員カットを行い、生産を停止したりとアストンマーティンに再び暗雲が漂い始めていた。
この少し前に新型ラゴンダを発表していた。
このモデルはラゴンダ・シリーズ Iとなり1969 年に設計された V8 サルーンの 4 ドア版であり生産終了までに販売されたのはわずか 7 台という超希少モデルだ。
8番目のボディとシャーシは 1974 年に組み立てられたが完成したのは 15年前の2008 年である。
もうここまで来ると何回売却されているのか訳が分からなくなってくるが、
1975年の3月にアメリカ人のピーター・スプレイグ、カナダ人のジョージ・ミンデン、イギリス人のジェレミー・ターナーが率いるコンソーシアムに売却された。
1975年9月までにアストンマーティン・ラゴンダ株式会社として再スタートしている。この時にアメリカや日本に向けての世界市場での販売計画が明らかになった。
1976年のラゴンダ・シリーズllを筆頭に次々と新モデルが登場した。開発上の問題のため、納車は1979年まで開始されなかった。
このラゴンダ・シリーズ I Iはアストンマーティンのなかでもかなり奇抜なデザインで未来からのきた車のようだ。
私の個人的な意見になるが、アストンマーティンというブランドに対してリトラクタブルヘッドライトはスポーツカーとしてのイメージが強くどうも似合わなくバランスが悪い。
ステアリングも個性が強過ぎて、劣化すると折れそうだ。
このラゴンダ・シリーズllは世界初のLED式のデジタルメーターを採用し、車両管理にもコンピューターを使うようになった。
これらの技術を採用により車両本体の4倍以上の開発費が掛かったという。
そして車両価格は驚異の4,500万円。
2023年の現在であればDBS Superleggeraを新車で買える…
インスタで見た事があるかもしれないが、1980 年のアストンマーティン ブルドッグというタイヤ以外は全てウェッジを効かせたコンセプトカーを発表した。
このブルドッグのお陰で大きな話題を呼び、アストンマーティンというブランド名を広がらせる事が出来た。
また新しいオーナーは、コンセプトカーとは別に、既存のアストンマーティンのラインナップを見直し拡大した。1977 年のV8 ヴァンテージは、ヴァンテージの名前のパフォーマンスのルーツへの回帰であった。
加えてV8 ヴァンテージのオープンモデル、ヴォランテの再設計をDB6生産終了以来から復活させた。
またこの時期にV8 ヴァンテージのマイナーチェンジ シリーズ4の発表された。
1970 年代から 1980 年代にかけて、アストン マーティンの経営状態は比較的良くなかった。
アストンマーティンがMGを買収するために進められた計画があったが最終的には失敗に終わってしまった。
1981年には、さらなる経営の安定を図るべく、石油開発及び流通企業の「ペース・ペトロリアム」を経営するイギリスの実業家で大富豪のヴィクター・ガーントレットに株式が売却された。
月日が経ちガントレットはイタリアのスタイリングハウスであるザガートの株式を購入し、アストンマーティンとの協力関係を復活させた。1986年にガントレットは007にアストンマーティンに復帰させる交渉を行った。
007のプロデューサーのカビー・ブロッコリは、ボンドブランドの価値を上げる為に俳優ティモシー・ダルトンを採用して再キャストすることにした。
ガントレット「リビング・デイライツ」の撮影に使用するためにヴァンテージを提供した。
そして自身がアメリカで乗ろうとしていたヴァンテージ ヴォランテをブロッコリーに売却しました。ガンレットは映画での大佐役を断った。
この時ガンレットは
「ぜひやりたかったが、本当に時間が足りなかった」
と言い残している。
その後ガントレットは既存のエンジンに最新のボディを搭載した 2 つの新しいモデル、
V8 ヴァンテージ ザガートとV8 ヴォランテ ザガートを発売した。
ヴァンテージ ザガートは 52 台、ヴォランテ ザガートは 37 台が生産されている。
翌年の1987年にフォードがアストンマーティンの株式を75%購入し、残りの株式も購入される事になってフォード・モーター傘下入りした。
フォードの傘下に入った後のアストンマーティンは主にガントレットの下で開発され、1989 年にヴィラージュが導入された。
新しいスタイル、新しいコンポーネントを利用した V8 サルーン コンセプトの実質的なアップデートであり、内装や電装系にはフォードのものが多く流用され品質が向上。
ガンレットはフォード買収後も2年間常務取締役として留任することに同意していた。
1992年からアストンマーティンのカスタマーサービス部門は、車両がパワーに対応できるようにサスペンション、ブレーキ、その他のコンポーネントに見直しが行われ、エンジンを6.3リッターまで引き上げた。
その恩恵でエンジンが330馬力から 465馬力に向上した。
また1993年ヴァンテージ V550も別で製造されていて、ボディのほぼすべてが新たに作られ、ヴィラージュの屋根とドアだけが使用されていた。2つのスーパーチャージャーが搭載されており550馬力もあり現在の基準であっても非常に高い数値となっている。
そして2000年に入る前に「DB」の2文字が入るDB7が誕生した。
フォードがデイヴィッド・ブラウンを、新生アストンマーティンの役員として再び招いたことから、DBという車名が使われるようになった。
このDB7はフォードとジャガーの部品を上手く使いコストを抑えて、アストンのエントリーモデルとし新しい顧客を引入れる目的に作られた。クーペが販売された後にヴォランテや特別仕様車が登場した。
1999年からはV12エンジン搭載車両のDB7が登場し、
という代名詞がDB7からDB11まで語り継がれる事になる。
今回の記事は年号やモデル名が多く、内容も過去の歴史のみなので読み飽きてしまったら申し訳ありません。
アストン誕生の由来を検索すれば、いくらでも他のブログで紹介されているのですが、
私のブログ名に
「アストンマーティン」
と、ブランド名を入れさせてもらっているので改めて紹介させていただきました。
それとまだ前編なので後編も読んでくれると嬉しいです。